一つの関

─森鴎外の『寒山拾得』

 

「心せよ亡霊を装いて戯れなば、亡霊となるべし」。

カバラ戒律

 

 森鴎外(一八六二─一九二二)は、『寒山拾得』(一九一六)を、子供に寒山と拾得とはどういう人なのかと聞かれた質問に対する答えをほとんどそのまま書いたものだ、『附寒山拾得縁起』において、と述べている。鴎外の作品は、一九一一年に発表され、改作された『興津弥五右衛門の遺書』を境に、歴史小説と坪内逍遥との没理想論争を繰り広げたそれ以前の−−例えば、ドイツ留学の体験に基づいた−−作品とに大きくわかれる。さらに、鴎外は、歴史小説から『渋江抽斎』に代表される史伝へと転回している。『寒山拾得』はその中の最晩年の時期に属している作品である。職業作家ではなかったこともあって、鴎外は、漱石と違って、死の直前まで精力的に作品を書いた作家ではない。鴎外は医学的な死が文学的な死と、必ずしも、一致していないのである。前年までは意欲的に創作していたが、この作品以後、鴎外は『渋江抽斎』など数編を発表しているものの、徐々に、小説を書かなくなっている。つまり、『寒山拾得』は、鴎外が作家として実質的な終わりを告げようとしている重要な時期の作品なのである。

 ところが、『寒山拾得』は、確かに、執筆時期から考えても、後期の歴史小説の部類に属しているのには違いないのだが、詳細に読んでみると、そうしたカテゴリーに色分けしにくいように思われる。

 代表的な歴史小説である『阿部一族』(一九一三)と『寒山拾得』は、文体において、次のような差異が見られる。

 従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、余所よりは早く咲く領地肥後国の花を見棄てて、五十四万石の大名の晴々しい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春と倶に、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうちに、図らず病に罹って、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延の飛脚が立つ。

 唐の貞観の頃だと云うから、西洋は七世紀の初日本は年号と云うもののやっと出来掛かった時である。閭丘胤と云う官吏がいたそうである。尤もそんな人はいなかったらしいと云う人もある。なぜかと云うと、閭は台州の主簿になっていたと言い伝えられているのに、新旧の唐書に伝が見えない。主簿と云えば、刺史とか太守とか云うと同じ官である。支那全国が道に分れ、道が州又は群に分れ、それが県に分れ、県の下に郷があり郷の下に里がある。州には刺史と云い、群には太守と云う。一体日本で県より小さいものに群の名を附けているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている。閭が果たして台州の主簿であったとすると日本の府県知事位の官吏である。そうして見ると、唐書の列伝に出てくる筈だと云うのである。しかし、閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにして置くのである。

 引用はどちらも冒頭部分からであるが、『阿部一族』の文体は禁欲的で、重たく、しつこく、そのテンポは静的な印象さえ与えるのに対して、『寒山拾得』のそれは快楽的で、軽く、あっさりとしていて、淡白ですらあり、そのテンポは速く、まるで飲み屋での話のようだ。しかも、こうした違いは、文体だけに限らないのである。『阿部一族』は慎重に、じっくりとねって書きあげたように見受けられるのに対して、『寒山拾得』は気軽に書いたどころか、一気に書き飛ばしてできあがった趣があり、両者は、全体として、大人とやんちゃ坊主ほどの差異があるのだ。譬えるならば、『阿部一族』はドイツに留学した経験を思い起こさせるのに、『寒山拾得』はアルプスの向こう側にあるイタリアの陽気さがある。つまり、『寒山拾得』は、「いつもと違って、一冊の参考書も見ずに書いた」からだけでなく、鴎外の作品の中で、特別な作品であるのだ。

 中国の古典をモチーフにしたその『寒山拾得』は次のようなプロットに基づいている。長安で高級官吏の閭は神経性の頭痛を台州の天台国清寺の豊干に治療してもらう。これから台州に赴く予定だった閭は豊干に「台州には逢いに往って為めになるような、えらい人はおられませんかな」と尋ねると、豊干は、「さようでございます。国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。それから寺の西の方に、寒巌と云う石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文珠でございます。さようならお暇をいたします」、とだけ言い残して去っていってしまう。期待して、その寺に行ってみると、閭は道翹という僧侶に出迎えられた。道翹によると、豊干は寺では「虎の背で詩を吟じて歩く」と言われ、尊敬されている。ところが、その豊干が文珠菩薩と普賢菩薩だと言った寒山と拾得は、彼の予想に反して、松林の中から豊干が拾ってきた捨て子なのだ。寒山と拾得など、寺では、誰も気にとめていない。拾得は、寺では、「僧共の食器を洗わせております」という扱いを受けている男で、さらに、寒山はその食器洗いの際の残飯をもらっている男にすぎないのである。道翹に寒山と拾得がいる厨に案内してもらった閭が、彼らに自己紹介をすると、二人は「顔を見合せて腹の底から籠み上げて来るような笑声を出し」、逃げ去ってしまう。

 寒山と拾得が、実は、文珠と普賢であるという種明かしは、必ずしも、意外でも突飛でもない。それは、鴎外の作品によく表われるアイロニーであって、寒山と拾得は、言ってみれば、「狂えるソクラテス」と呼ばれたディオゲネス(不明−紀元前三二三)なのである。ディオゲネスは弟子をとらないことで知られた犬儒派(キュニコス学派)のアンティステネスの弟子であった。アンティステネスは自由で無欲、簡素な生活をモットーにしていた。ディオゲネスは、汚れたマントを二重に着こみ、首からは頭蛇袋をぶらさげ、樽を住まいとし、ところかまわず物を食ったり寝たりしたので、市民たちに(豚とともに、ギリシア人に最も軽蔑された動物である)「犬」とさげすまされていたのである。

 ディオゲネス・ラエルティオスの『古代ギリシア哲学者列伝』によると、ディオゲネスをめぐるエピソードは事欠かない。例えば、彼は、広場で、手淫に耽りながら、「ああ、お腹もこんなぐあいに、こすりさえすれば、ひもじくなくなるならいいのになあ」と言ったとか、昼間にランプを持って「私は人間を探している」と歩き回ったというエピソードが伝わっている。また、生涯に渡って奴隷であったディオゲネスは、死の間際に主人から「埋葬はどうして欲しいか」と尋ねられたとき、「うつぶせに」と言ったので、主人がその理由を聞きかえすと、「まもなく上下が逆転することになるだろうから」、と逆説家らしく答えている。こうしたものの中で最も有名なエピソードはアレキサンダー大王との間の話であろう。アレキサンダー大王がコリントでディオゲネスを訪れたとき、大王が彼に「望みがあればなんなりと申せ」と言うと、樽に入って日光浴をしていたディオゲネスは、アレキサンダーに向かって、「そこを少しどいてくれ。陽があたらないから」と答えた。大王は、その言葉を耳にすると、「もし私がアレキサンダーでなかったなら、ディオゲネスになりたい」と漏らしたと言われているのである。

 そのアレキサンダーの家庭教師だったアリストテレスは、ちょうど『原政治学』をリュケイオンの学校で講義していた時期にアテナイに表われたディオゲネスを「ポリス的動物」としての人間ではなく、「部族もなく、法もなく、籠もなき者」というホメーロスの言葉を引用して、「劣悪な人間」だと断じている。しかし、ディオゲネスは、浮浪者であり奴隷として、「獣生活」を自足の生活としたのである。アンティステネス=ディオゲネスはプラトン=アリストテレス哲学を批判したのだが、思想内容、と言うよりも、哲学の役割や地位といった側面に対して加えたのであった。アンティステネス=ディオゲネスの哲学は反文明的・反ポリス的・反知性的である。プラトン=アリストテレスの哲学は、本来、ポリスとそこに生きる人間のために意図されたものでありながら、実際には、具体的なポリスの窮状と憤った人間に何の寄与もしない空理空論に陥った。天文学や幾何学、音楽などは生きることにおいて無用なものであり、知的な訓練を施すことは狂気の沙汰であって、哲学的問答など法螺話にすぎない。そう彼らは主張し、そのように生活したのである。彼らが本を書き表したのか否かははっきりとしていない。プラトンもアンティステネスも、実は、ソクラテスの弟子であり、アンティステネスは、プラトンの『パイドン』によると、その師の死にも立ち会っている(プラトンは病欠)。ソクラテスの死から受けたショックの大きさは同じだったが、両者の反応はまったく正反対だった。プラトンはソクラテスを死に追いやったアテナイの民主主義を批判し、それに代わる新たな政治体制、いわゆる哲人政治を提唱した。それに対して、アンティステネスはポリスの民主主義を見捨てただけでなく、政治そのものを完全に見放したのだ。政治など人間の「魂をできるだけすぐれたものにするということ」には無力だというわけである。そして、二人ともソクラテスから「よく生きること」を受けとったことは同じだが、山川偉也の『古代ギリシアの思想』の言葉を借りるならば、プラトンが「概念」の哲学者としてのソクラテスに焦点をあてたのに対して、他方、アンティステネスは冬でも薄着の「異人」としてのソクラテスに影響を受けたのである。

 アランは、「ディオゲネス」(『幸福論』所収)において、ディオゲネスについて次のように述べている。

 逆説家のディオゲネスは、苦しみはいいものだ、ということを好んで言っていた。その意味は、みずから選び、みずから求めた苦しみということだ。ひとからうけた苦しみを、だれも好みはしない。

 (略)しかし、わたしには、奴隷であることのたいくつさは、主人であることのたいくつさほどつらくないように思われる。行動というものは、どんなに単調であっても、いつでも少しは支配したり、考え出したりすべきものが残っているからだ。これに反して、既成の楽しみをうけとる者は、当然のことながら、もっとも分がわるい。こうして、金持は不機嫌に、そして悲しい心で支配する。労働者の弱点は、自分が考えている以上に満足していることに由来する。かれは意地の悪い人間をつくる。

 さまざまな煩わしいことに悩まされることなく、最下層の生き方を感受する。寒山・拾得はこのディオゲネスと同じ徳や善を信じるものたちである。彼らは「主人であることのたいくつさ」ではなく、「奴隷であることのたいくつさ」を選びとった。つまり、寒山・拾得は、ディオゲネスと同じように、寺の食器を洗い、その残飯をもらう簡素さと無欲さを自足の生活としたのである。

 『寒山拾得』には、登場人物に関して、作品読解の鍵となる一節がある。鴎外によると、「全体世の中の人の、道とか宗教とか云うものに対する態度」は三つある。第一に、道とか宗教に「全く無頓着な人」である。次に、「専念に道を求め」、「日々の務が即ち道そのものになってしまう」人である。そして、第三に、その中間の「道と云うものの存在を客観的に」認めているが、自分ではやる気がなく、第二のタイプの人に対して「盲目の尊敬」をする人である。しかしながら、鴎外はこの三つのカテゴリーを提示するのだが、登場人物たちに適切にあてはまっているとは言いがたい。鴎外が、アレキサンダー大王がディオゲナスにそうした感情を抱いていたように、この寒山・拾得の生き方を理想としていたと山崎國紀は言っているが、おそらくその見解は素朴にすぎる。「自分の会得せぬものに対する、盲目の尊敬」を持っている閭は第三の種類に含まれるし、豊干や寒山・拾得は第二のタイプである。しかし、僧侶たちはどのカテゴリーにも符合しない。寒山・拾得をを虐げ、豊干を敬う彼らは道を志していながら、それが「日々の務」そのものにもなっていないのだ。むしろ、僧侶たちは、豊干と寒山・拾得が第二のタイプと表裏一体の関係にあるように、第三のカテゴリーを裏返した種類の人である。

 『寒山拾得』だけでなく、鴎外のいくつかの作品には三つのカテゴリーが登場してくる。『阿部一族』では殉死の義腹・論腹・商腹という三つのカテゴリーが出てくるし、『大塩平八郎』(一九一四)では平八郎の前にあった三つの道が表われている。三つのカテゴリーは、カントの真・善・美やヘーゲルの家族・市民社会・国家など、ドイツ哲学においてしばしば用いられるているのである。ドイツの哲学者たちは思想における三種競技のエキスパートであるが、彼らのカテゴリー化はドイツ語特有の名詞を大文字から始めなければならないという文法的呪縛がもたらしているとも考えられる。ドイツ語に対して、動詞の言語である英語では言葉のカテゴライズ以上にその用法が着目されるのである。ドイツ哲学に影響されながら、それを転倒して展開したアメリカのプラグマティズムが、そのことを告げている。プラグマティストたちは、「われわれの口にする語や文章と、経験の内的・外的な事実についてわれわれが描く像との間の諸関係−−それが調和的な関係であれ、それぞれ独立に創造的だという関係であれ−−を解明し、図式化しようと試みる」(ジョージ・スタイナー『ハイデガー』)。しかし、鴎外は、『阿部一族』において、三つのカテゴリーを提示しておいて、小説が進むにつれ、義腹であると同時に論腹でもあり、また商腹でもあるというように主張して、それによって物事がうまく分類できないようにしてしまう。彼はこんな三つの分類によって、物事をつかむことがうまくいくわけなどないと読み手の予想を裏切ってみせるのである。「天竺徳兵衛のダンマリの構図。オロチとガマとナメクジのエコロジカル・バランス。そのうちには、進化してガメクジになるかもしれないが、当分は大丈夫。敵は他の敵との関係で味方であり、味方は他の味方との関係において敵なのだ。この世界では、二分法は成立しない。敵か味方かと判断することなく、三つ巴で争う。3はええなあ、2のように発展しないもん。でも人間にとって、本当の3が、はたしてあるのだろうか。プラトニックな3であるためには、あまりにも人間は2にこだわる」(森毅「3について」『佐保利流数学のすすめ』所収)。鴎外のドイツ哲学的なカテゴリー批判はこのようなアイロニーによってなされている。鴎外の歴史小説は前期の作品群に対する自己批判であるが、それらの関連はこのようなカテゴリーとその批判と同じ構造を持っているのである。

 鴎外は、『歴史其儘と歴史離れ』(一九一五)において、自分の歴史小説について次のように述べている。

 わたくしの前に言った類の作品は、誰の小説とも違う。これは小説には、事実を自由に取捨して、纏まりを附けた迹がある習であるに、あの類の作品にはそれがないからである。わたくしにだって、これは脚本であるが「日連上人辻説法」を書く時なぞは、ずっと後の立正安国論を、前の鎌倉の辻説法を畳み込んだ。こう云う手段を、わたくしは近頃小説を書く時全く斥けていたのである。

 なぜそうしたかと云うと、其動機は簡単である。わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれを猥りに変更するのが厭になった。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思った。これが二つである。

 わたくしのあの類の作品が、他の物と違う点は、巧拙は別として種々あろうが、其中核は右に陳べた点にあると、わたくしは想う。

 わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌って、知らず知らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ。そしてこれを脱しようと思った。

 兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書きあげた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りないようである。これはわたくしの正直な告白である。

 鴎外は歴史小説を特徴づけている性質を「歴史」と「自然」から説明している。鴎外は「自然」を「歴史」との関係から理解し、彼の立場では、「歴史」と「自然」の調停は極めて困難である。「自然」や「歴史」という言葉は、使うものによって、その意味が大きく異なる。歴史小説の執筆動機が「歴史離れがしたさ」であるというのは奇妙であろう。「歴史」は「事実を自由に取捨して、纏まりを附けた迹がある習」、すなわち、後に述べるように、一つの法則によって構成された世界像である。一方、鴎外の「自然」は「史料を調べて見て、其中に窺はれる」ものなのだ。それは、「歴史」に対する批判として「自然」に関心をよせたことから考えて、支離滅裂ではなく、一つのパースペクティヴだけでは示すことのできぬある全体性にほかならない。鴎外の歴史小説は、鴎外自身、「わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思った」、と告げているように、その手法を自然主義文学や私小説のそれに基づいている。確かに、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で明らかにしているように、彼の歴史小説は私小説的な構造を持っているのだが、そのことを肯定するにしても否定するにしても、この自己批判的側面を見ないならば、不十分である。鴎外は「理想」小説から歴史小説へと転回した。この変転がなかったならば、彼は通俗的な作家として終わったにすぎなかった。それは鴎外が自己を顧みた結果である。

 鴎外は、『妄想』において、自己を次のように述べている。

 こういうように廣狭種々のsocialな繁累的思想が、次第もなく簇がり起って来るが、それがとうとうindividual な自我の上に歸着してしまう。死というものはあらゆる方角から引っ張っている絲の湊合しているこの自己というものが無くなってしまうものだと思う。

 自分は小さい時から小説が好きなので、外國語を學んでからも、暇があれば外國の小説を讀んでいる。どれを讀んで見てもこの自我が無くなるということは最も大いなる最も深い苦痛だと云ってある。ところが自分には單に我が無くなるということ丈ならば、苦痛とは思われない。只刃物で死んだら、其刹那に肉體の痛みを覚えるだろうと思い、病や藥で死んだら、それぞれの病症藥性に相応して、窒息するとか痙攣するとかいう苦みを覚えるだろうと思うのである。自我が無くなる為の苦痛はない。(略)

 そんなら自我が無くなるということに就いて、平氣でゐるかというに、そうではない。その自我というものが有る間に、それをどんな物だとはっきり考えても見ずに、知らずに、それを無くしてしまうのが口惜しい。残念である。漢學者の謂う酔生夢死というような生涯を送っしてまうのが残念である。それを口惜しい、残念だと思うと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言われない寂しさを覚える。

 それが煩悶になる。それが苦痛になる。

 「理想」小説は「自我が無くなるといふことは最も大いなる最も深い苦痛だ」と告げるものであり、一方、歴史小説は「その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはつきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしふのが口惜しい」と訴えるものなのである。この「自我」とは無味乾燥な散文に基づいた法杓精神なのだ。法的な言語と論理で現実に接する精神こそが「自我」にほかならない。「自我」を持たない日本人は法的現実を認めたがらないのである。ドイツやフランスなどの大陸では、成文化された憲法があり、法令や条例がそこから演繹的に制定され、判例が考えられる。またイギリスには成文憲法はないが、これまでに制定された法律や裁判の判例など何らかの手続きを経て文章化されたものを法としている。それに対して、日本では成文化された法が軽視され、公的手続きを踏まないたんなる慣習が法律のように扱われているのである。アメリカでは映画やテレビ、文学において法廷のシーンは欠かせないし、学校教育に模擬裁判がとりいれられている。一方、日本においては、学校教育で模擬法廷など行われることはないし、法律を扱ったテレビ番組はNHKの『バラエティー生活笑百科』くらいである。文学者を含めた芸術家ときたら、法と聞いただけで顔をしかめ、とても作品の中で描くなんて最初から考えの及びもつかないのだ。日本人は、その姿勢を正当化するために、仏教をひきあいに出すが、仏教も法、すなわちダルマと呼ばれる普遍的真理を認めているのであって、それはごまかしにすぎない。明治に入ってから、日本でも、当初は、法を重視する動きがあった。江藤新平に指揮された司法機構は法を厳格に運用した。中国の最初の統一国家秦は儒教の徳治主義に代わって、法家の主張する法治主義を掲げたように、法治主義は官僚制による権力行使を前提とし、官僚もまた成文化された法に従わなければならない。ところが、徳治主義的なお上の意識になれていた官僚の手法に対して起こされた行政訴訟はことごとく行政側に不利な判決が出たため、行政組織の機能は低下した。征韓論をめぐって江藤新平が失脚した後は、行政側に有利な判決が下されるように司法組織は変えられてしまったのである。鴎外が官僚になったのはこうした時代なのだ。鴎外のあの有名な遺書は、民法から見れば、遺族において最も問題になる点、すなわち遺産がどれだけあって、またそれを誰にどう分配するのかといった刑事事件が起こったときに重要な動機となってしまう点にまったく触れられておらず、ただ葬儀の形式や墓石など彼自身をめぐる死後の処理が触れてあるにすぎない。四十歳で暗殺されたジョン・レノンも生前に遺言状を書いていたが、彼はしっかり遺産の分配についてしっかりと決めていた。遺産は大切なのである。法感覚とは対他・対社会関係について反応であるが、あの遺書を見るかぎり、鴎外にはそれがかなり稀薄であった。

 鴎外の小説には法をめぐる作品が多い。その際、いつも鴎外は明らかに法に汲みしていない。彼は、作品を通じて、法の根拠を問いなおす。鴎外はその法に従って権力を行使するはずの官僚が、『寒山拾得』の閭も官僚であるように、その盲目的追従の姿勢ゆえに、やりこめられる姿を描いているのである。

 『津下四郎左衛門』は鴎外の法意識が典型的に表われている。『津下四郎左衛門』は横井小楠を暗殺して処刑された攘夷派の津下四郎左衛門の息子の手記である。そこで息子は次のような論理を展開し、父の罪を説明している。父は開国への転換に向かう時代の変化を洞察できずにいた愚か者であったが、当時は父だけでなく大多数の人々がそうであったのである。父は若かったし、身分も低かったから、啓蒙してくれる智者に出会う機会がなかった。父の罪は無知にある。けれども、罪が無知であるとすれば、父は無知であらざるを得なかったのであり、無知は彼の責任ではないゆえに、父は無罪である。

 息子は、『津下四郎左衛門』において、法の善悪について次のように書いている。

 父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であったら、又末代まで悪人と認められる人であったら、殺したのが当然の事になるだろう。生憎其の殺された人は悪人ではなかった。今から顧みて、それを悪人だという人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人そう認めたのではない。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといっても好い。善悪の標準は時と所とに従って変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかったか。其父の妻子がなぜ日陰ものにならなくてはならぬか。こう云う取留めのない、tautologieに類し、又zirculus vitiosus に類した思想の連鎖が、蜘蛛の糸のように私の精神に絡み附いて、私の読みさした巻を閉じさせ、書き掛けた筆を抛たせたのである。

 歴史家の目はつねに過去と同時に未来にも向けられているものである。息子は法がア・プリオリなものでも、社会契約でもなく、制度的なものなのだと主張している。制度が変われば、それとともに、「善悪の標準は時と所とに従って変化する」。この疑問は社会的変化が起こったときによく問われる。しかし、息子の見解では父の弁護にはならない。大多数の人々がそうであったにもかかわらず、実際に実行したのは彼だけなのである。志賀直哉であれば、そこまで頭がまわらないところであるが、鴎外自身、それゆえ、この論理を信じてはいないのだ。「私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなった私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰って、後世に残したいと云う位のものである」。息子は「歴史とは、ある時代が他の時代のうちで注目に値すると考えたものの記録」(ブルクハルト)であると考えている。鴎外は弁証法的に正命題に対して反対命題を示して、両者を吟味し、どちらも証明不可能であることを証明した上で、次の命題へと進んでいく。この論理展開の手法はヘーゲル弁証法ではなく、カントの二律背反である。息子は、法の規定する善悪について考えられるだけの可能性を提起した上で、結論づけるのをあきらめてしまう。けれども、彼は懐疑論やペシミズム、社会的なるものに対するルサンチマンといったニヒリズムに陥ることはない。彼は歴史家であって、裁判官ではないのだ。「非難するときにわれわれが忘れてしまうのは、われわれの法廷(法律上のものであれ、道徳上のものであれ)は、現に生きて活動している危険な人々のために設けられた現代の法廷であるのに、被告たちはすでに当時の法廷で裁かれていて、二度も有罪とか無罪とかの判決を受けることはできないという大きな違いである。どういう法廷であれ、彼らに責任があると考えることはできない。なぜなら、彼らは、過去の平安のうちに住む過去の人々であり、それゆえにこそ歴史上の人物なのであって、彼らの事業の精神を把握し、理解しようとする判決以外のいかなる判決も受けることはできないのであるから。(略)歴史の物語をするという口実で、裁判官のように一方に向かっては罪を問い、他方に向かっては無罪を言い渡して騒ぎまわり、これこそ歴史の使命であると考えている人たちは(略)一般に歴史的感覚のないものと認められている」(クローチェ『自由の物語としての歴史』)。法を規定するのは歴史過程である。法を規定するのが歴史であるのに、歴史家がその歴史に法則を求めることは矛盾している。つまり、このように法に関する意識は歴史意識へと変換されるのである。

 そうした鴎外の歴史意識が最も表われている作品の一つである『阿部一族』において、細川忠利が、阿部弥一右衛門に殉死することを許さなかったが、その理由ははっきりせず、さこには次のような記述があるだけである。

 人には誰が上にも好きな人、厭な人と云うものがある。そしてなぜ好きだか、厭だかと詮索して見ると、どうかすると細くするほどの拠り所がない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。

 これは確執やすれ違いなどと称してゴシップを扱う雑誌や新聞においていつも極端に肥大化される日常生活的因果関係であって、法的視点からはほど遠い。鴎外の歴史小説の発端は些細なことである。ただの喧嘩やすれちがいですまされるようなことが大事になってしまうのだ。この作品でも、阿部一族は極めて簡単に反乱にふみきってしまう。この反乱を歴史学的に説明すると、江戸幕藩体制の確立によって、戦国時代の主君の関係は官僚的な上下の関係へと転換していったため、官僚制から派生した葛藤、すなわち官僚制の存在様式によって生活しているものとそれ以前の存在様式で生きてきたものとの間の断絶がこの事件を引き起こしたとなるだろう。鴎外は歴史小説によって「歴史」主義を批判している。彼はヘーゲルの理念の弁証法的発展の歴史観に同意しないのである。だからと言って、彼は歴史における個人の役割を過大評価し、クレオパトラの鼻がもう少し低かったなら歴史は変わっただろうなどとさらさら推論するつもりはないのだ。「忠利が弥一右衛門を好かぬ」のは決定論の問題ではなく、日常生活に見られるありきたりの原因と結果の連鎖の一つなのである。「風が吹けば、桶屋がもうかる」は、ある意味で、その問題を端的に表わしている。「忠利が弥一右衛門を好かぬ」ことが阿部一族の反乱の原因とはまったく無関係なわけでは、当然、ない。だが、それがすべての原因であるというパースペクティヴも認めないのである。鴎外の歴史小説の試みは歴史における因果関係の問題に属する。『法の精神』で知られるモンテスキューは、『ローマ盛衰原因論』において、「あらゆる王朝のうちに作用して、これを興し、これを保ち、これを亡ぼす、精神上および物質上の一般的諸原因がある」のであり、「すべての出来事はこれらの原因に従う」という原理を歴史記述の出発点とした。モンテスキュー以来、歴史的事件の原因やその法則を発見し、秩序だてることを十九世紀まで歴史家の第一の目的としてきたのだ。その頂点がヘーゲルの歴史哲学にほかならない。鴎外が異を唱えたのはこの発想である。歴史は普遍的な法則によって決定されてはいない。マイネッケは、『歴史における因果関係と価値』において、「歴史における因果関係の探求は、価値との関係がなければ不可能である。(略)因果関係の探求の背後には、直接的にせよ、間接的にせよ、いつも価値の探求が横たわっている」、と述べている。歴史記述は現実をより理解しようとするためのある価値を秘めた作業仮説である。「忠利が弥一右衛門を好かぬ」ことは歴史の一般的命題としては成立しえない。鴎外は、ヒュームのように、因果性そのものを否定しているわけではない。鴎外は、史伝において、歴史記述としてはクラシカルに、その主人公だけでなく、「親の因果が子に報い」という言葉を思い起こさせるような、先祖と子孫に関してまでも細かく言及している。彼は一つの法則によって完結してしまうような因果関係を拒んでいるのである。日本人は江戸時代までの封建制のドラマを、現代を舞台にした作品以上に、好むが、それは彼らが合理や法、ひいては歴史的反応を嫌悪しているからにすぎない。しかしながら、鴎外は法則による歴史認識を批判しているのであって、歴史がたんなる曖昧模糊とした反合理にすぎないと言っているのではないのだ。『ヰタ・セクスアリス』で発禁処分をくらった経験を持つ鴎外が現在ではなく過去を扱ったのは、それがモンテスキューの説く近代法の精神とは無縁だったからであるのと同時に、近い時代を扱うとそこに厄介な災いの種があるからなのである。「現代史というものが面倒なのは、すべての選択がまだ可能であった時期を人々が覚えているためであり、これらの選択が既成事実によって不可能になっていると見る歴史家の態度を受け容れ難いと感じているためである。これは純粋に感情的で非歴史的反応なのだ」(E・H・カー『歴史とは何か』)。

 唐木順三は、『鴎外の精神』において、そうした歴史小説から『渋江抽斎』・『伊沢蘭軒』・『北条霞亭』といった史伝へ至った鴎外の執筆動機を次のように述べている。

 僕には鴎外が何故史伝に進んだかが、ほぼ見えて来たように思う。第一に、(略)また新しく敵をつくりこの敵に於て自己の主観と月意見を吐露する如き創作を始める如きこともいまはもうしたくは無い。(略)第二に歴史の繋縛もう身にしみて感じている。それからも自由でありたい。既知の史料によって与えられる「自然」には疲れ果てている。(略)緊縛なき歴史、自分がはじめて発見し公表する未知の歴史、これは当時の鴎外にとって絶好の相手であったに相違ない。(略)ここでは歴史と自由とが何の矛盾もなく結合する。

 この歴史と自由(意志)の問題設定は極めて素朴である。唐木順三には鴎外の歴史小説の意義がまったく見失われている。先に引用した『津下四郎左衛門』に展開された周到な論理において、このような問題系はすでに考えられてしまっているのである。なるほど、こうした不幸な転向は、歴史家において、ありうることだろう。例えば、一九二〇年代には先の意見を発言したマイネッケは、第二次世界大戦後、『マキャベリズム』の中で、ドイツ破滅の原因をカイザーやヒンデンブルク、ヒトラーなどの個人的要因に帰している。けれども、鴎外は歴史小説で追い求めた地平線を史伝においてさらに広げているのである。歴史小説から個人に焦点を合わせた史伝への移行によって、個人崇拝を是認することが鴎外の目的なのではない。われわれは現代の歴史展望に嫌気がさして、プルタークの『英雄伝』や司馬遷の『史記』をいかに懐かしんだとしても、彼らについて書くことは許されるが、彼らのように書くことはできないのである。彼らの歴史叙述の方法は、自身の創造であると同時に、その歴史的・社会的背景と結びついているのだ。歴史を描く彼らの文体も、また、歴史の一つなのである。古典を読む際に、読解者の問題意識が求められる。それは、「今、なぜ鴎外なのか?」のような(文学愛好の士に向けられた)新聞の文芸欄や文芸雑誌のタイトルとして踊る馬鹿騒ぎではなく、現在に生きるわれわれに対する問いかけとしてその古典を注目する必要かあることを意味しているのである。ただ自分はこの出来事がまたはこの人が好きだから、この作品を手にとるという理由では、研究者が趣味のために、あるいはそれを学会に残って生活の糧とする目的ならまだしも、不十分なのだ。鴎外であれば、さしずめ、今日的意義は、冷戦構造の崩壊後、第一次世界大戦以前の状況が復活しているように、文学者も含めた人々の歴史感覚というものが危機的なまでに稀薄になりつつあり、歴史という問題に苦しみぬいた鴎外の作品を読むことによって、改めてそれを問いなおすということになろう。もっとも、そうした動機は、あからさまに書き記すことではなく、読み手にとって、鴎外、もしくは彼を扱った作品が、その生において、いかなる意味を持つのかが問われるように書く必要がある。その非鳥瞰的姿勢により彼が歴史の参加者の一人であることを物語るのだ。歴史研究とは現在の相対化にほかならない。古典読解には歴史意識が不可欠なのであり、その読みを通じて彼の歴史感覚が明らかになるのである。ほとんどの伝記作家にはこの認識が欠けている。伝記的作品は超歴史的な個人信奉に堕してしまうことが多い。伝記作家でありながら、同時に歴史家として才能を発揮した例は、トロツキー伝三部作およびスターリン伝のアイザック・ドイッチャーやマリー・アントワネット伝のシュテファン・ツヴァイク、ドストエフスキー伝のE・H・カーなど数少ないのである。歴史記述において個人が対象になるのは、彼が歴史的過程の産物であると同時にそれへのある態度を所有した参加者、さらには生産者であるからなのだ。鴎外が個人を扱うのはア・プリオリな歴史の法則による叙述を批判するためである。つまり、個人はあくまでも歴史過程の現象であり、その根底に物自体がないことを強調する目的で、鴎外は史伝を書き始めたのだ。「歴史は、何も行わず、莫大な富も所有せず、戦闘もしない。すべてを行うもの、所有するもの、戦うもの、それは人間、現実の生きた人間である」(カール・マルクス)。

 鴎外の歴史小説にみられる文体は、ニュートン力学的な結果と原因の因果関係になれたものには、静的に思われるだろう。しかし、鴎外の文体は、電磁気学的な意味において、動的なのである。鴎外は、電磁気学的に、歴史を因果関係として把握しようとしている。登場人物は、電極や磁極のように、反発・結合し、それが歴史を動かす力となる。彼の文体は年輪型電場のように求心的に歴史を展開する。鴎外の時代には、治金学や金属工学を含めて電磁気学系統の学問は、細菌学などとならんで、本多光太郎や八木アンテナで知られる八木秀次、三島徳七らによって、世界的レベルに達していた。十九世紀は、物理学においては、力学におけるニュートンの運動法則と電磁気学のマックスウェルの方程式からすべての物理現象を説明できると考えた時代であると同時に、非アカデミックな蒸気や電気を利用した応用と技術、すなわち「発明の時代」でもあった。自然主義文学者や私小説家は文学における発明家なのである。けれども、鴎外は小説家のような近代アカデミズムから排除された存在を認めていた。ただし、鴎外の歴史小説は、どんなに彼等の小説と構造的類似点があったとしても、一つの法則に基づいた世界を具現化した「理想」小説への自己批判なのである。私小説家は鴎外が前提にしていたカテゴリーを、最初から、無視している。鴎外は、歴史小説を書く際に、構造性を前提にしているのだ。鴎外は、この意味において、私小説家とは異なっているし、彼には私小説家が持ち得なかったこれまで論じてきたような歴史認識があったのである。

 ところが、『寒山拾得』の場合、歴史小説とは違って、例の三つのカテゴリーがうまく機能しないのではなく、このカテゴリーに対象が最初からあてはまらないのだ。カテゴリーはただ提示されているだけである。柄谷行人は、鴎外の歴史小説を論じた『歴史と自然』において、一般的な論者が歴史小説の領域に混入させてしまう『寒山拾得』を、正当にも、考察の対象から外している。『寒山拾得』は他の鴎外の歴史小説とは別であり、「理想」に基づいた小説や歴史小説、史伝だけでなく、新たなカテゴリーを考え出さなければならない。

 『寒山拾得』は、彼の歴史小説のように、「『自然』を尊重する念」を発しているようだが、全体として、短編だからかもしれないけれども、まとまりがついてないわけではない。そこには、確かに、歴史小説的な要素もある。例えば、閭に寒山と拾得は文珠と普賢だと告げる豊干は典型的な鴎外の歴史小説的な人物である。なぜ豊干が閭に寒山と拾得のことを話したのか理由がわからない。豊干のすべてのものに対する悪意ともとれるが、はっきりとしないのだ。これは鴎外の歴史小説につきものの謎である。ところが、まとまりがついているにもかかわらず、『寒山拾得』には、その枠組みにはおさまりきらない、豊干の行為以上の謎があるのだ。

 『寒山拾得』におけるその不思議な謎は、終わりの次のようなシーンが提示するものなのである。

 一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出しにして、足には草履を穿いている。今一人は木の皮で編んだ帽を被って、足には木履を穿いている。どちらも痩せて身すぼらしい小男で、豊干のような大男ではない。

 道翹が呼び掛けた時、頭を剥き出した方が振り向いてにやりと笑ったが、返事はしなかった。これが寒山だと見える。帽を被った方は身動きもしない。これが拾得なのであろう。

 閭はこう見当を附けて二人の傍へ進み寄った。そして袖を掻き合せて恭しく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」と名告った。

 二人か同時に閭を一目見た。それから二人で顔を見合せて腹の底から籠み上げて来るような笑声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。逃げしなしに寒山が「豊干がしゃべったな」と云ったのが聞えた。

 驚いて跡を見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁を盛った僧等が、ぞろぞろと来てたかった。道翹は真蒼な顔をして立ち竦んでいた。

 このシーンは寒山・拾得、閭、道翹の三つの視点が交錯している。一つは逃げ、一つは驚き、一つは青ざめて立ち尽くす。これは、芥川龍之介の『羅生門』の最後で下人がアイロニカルな意見を述べ、老婆の衣服を身ぐるみ剥いで逃げ出すシーンとは違って、どこかきわやかであると同時に謎めいている。このシーンの謎は、しかし、『阿部一族』の反乱を起こした阿部一族と家族ぐるみのつきあいがあった隣人なのに、一族を討った後に、「白川で一人一人の創を洗って見た時、柄本又七郎の槍に胸板を衝き抜かれた弥五兵衛の創は、誰の受けた創よりも立派であったので、又七郎はいよいよ面目を施した」と感じる柄本又七郎の示すような謎なのではない。歴史小説にははぐらかしと思える部分も少なくないが、これははぐらかしではないのだ。それは説明が不十分だからわからないのでもなく、支離滅裂だからわからないのでもない。謎は寒山・拾得と閭の視点にある。

 三者のうち道翹の視点は容易に理解できる。道翹が「真蒼な顔をして立ち竦んでいた」のは、寒山・拾得が文珠・普賢であることを知らないわけだから、高級官吏の閭の前で寺の関係者がこんなどたばたを起こしてしまったことに対する羞恥心や将来への不安といった感情の表われである。

 逃げ出された閭の側からこのシーンを見るならば、拒絶に焦点があてられることができる。閭は「驚いて跡を見送っている」のであって、「真蒼な顔をして立ち竦んで」いない。閭は拒絶されているのだが、その拒絶に対して、彼は意気消沈していないのである。この拒絶は、近づいてくるものの思いや努力とは無関係に、極めて厳しく、はねつける何かを感じさせる。しかし、そこにはなつかしさがある。拒絶されたものを、むしろ、励ましているようだ。この拒絶を、豊干の拒絶と比べてみると、その独自性がより顕在化してくる。閭は裳抜けの殼になった豊干の家で、庭の落ち葉のまきあがる音が鳴ると、「髪の毛の根を締め附けるように感じて、全身の肌に粟を生じた」のだ。そこには、寒山・拾得の逃げ出した後とは違って、なつかしさはなく、ただ寒々としているのである。

 坂口安吾は、『文学のふるさと』において、こうした拒絶を明確に次のように言い表わしている。

 ここに、芥川が突き放されたものは、やっはり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像できないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。

 つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。

 もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さっきの狂言のようなものを創りだすことはないでしょう。

 モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度とは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものです。

 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないこと自体が救いであります。

 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる−−私はそうも思います。

 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……

 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に成育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。

 安吾は読み手が「突き放される」ことを「ふるさと」と呼んでいる。生きることにともなう「宝石の冷たさ」(同)を文学は自覚しなければならない。この安吾の主張は『悲劇の誕生』におけるニーチェの悲劇のヴィジョンと同じである。その「突き放された」ことは、「宝石」のように、美しさとその冷たさによって人を、遠くにある「ふるさと」のように、魅了する。「突き放される」ことは「文学の否定的な態度」ではなく、「文学の建設的なもの」なのである。と言うのも、人が入りこむことを決して許さない絶対的な拒絶には、なつかしさがあるから。それは、子供の頃、大人に不思議に思ったことを尋ねたのに、満足な答えもしてくれずに、「突き放され」てしまったときを思い起こさせる。例えば、寺山修司は、『宝石館』において、大人になってから子供時代へのノスタルジーをめぐって「宝石」をモチーフにした詩を書いている。その「突き放された」ことの上に子供は大人へとなっていく。しかし、人はその「突き放された」ことに立ち戻っては力をとり戻していくのである。それゆえ、それは「ふるさと」なのであり、文学だけでなく、歴史の「ふるさと」と言うこともできる。

 ただし、このフレーズはよく引用されるが、多くの場合、「ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではない」から、「このような物語を、それほど高く評価」しないという一節が無視され、安吾の言わんとしていることが誤解されている。安吾があたかも「このような物語」こそが真の文学なのだと指摘しているかにとられているのだ。例えば、島田雅彦は安吾を村上龍と同じ程度に見なし、野田秀樹を安吾の「生まれ変わり」だという悪質な冗談ではないのかと思われても仕方のないような意見を述べている。なるほど、彼の認識の源泉である柄谷行人にも安吾に関する読解はあまりに彼の線を細くしている一面がないわけではないが、柄谷にはどんなに強引な読みをしていても、森毅が言っている通り、そこには愛嬌があるから許せるのだ。また、グリム童話の残酷さに魅惑されたなどと言う荻野アンナの『アイ・ラブ・安吾』は先の引用の部分をまったく理解できていないのみならず、このタイトルからして反安吾的である。島田雅彦にしろ、荻野アンナにしろ、たんに未熟な大人をとらえているにすぎず、一方、安吾は成熟した子供であるのに、彼らはこの違いが未熟さゆえに気がつかないのだ。安吾は彼らと並ぶと大人になるが、一人でいれば子供に戻る。安吾フリークたちは、彼の作品を読む前に、自らの線の細さを自覚する必要があるだろう。ニヒリズムの到来は必然的であるが、それで終わりにはならない。さらにとことんまでニヒリズムをおしすすることが希求される。ところが、彼らはニヒリズムのハッピーエンドで戯れているにすぎないのである。積極的に「突き放される」ことを待ち望んではならない。そんなことをすれば、「突き放される」ことに頼ることになり、自意識の延長となってしまい、たんに「ゆりかご」に回帰しただけなのである。「突き放される」ことを書くことよりもよりも、すぎさったことをすべて忘れてつねに今の一瞬一瞬を、健康的に、全力を尽くし、意欲を持って生きることを目標とすることこそ、むしろ、安吾の言う「文学」なのだ。

 『寒山拾得』はそのような「ふるさとの意識・自覚」の上にある。『寒山拾得』が「突き放される」ことに基づいた作品であることは、それと同じ年の同じ月に発表された『高瀬舟』と比較してみると、いっそう明瞭になる。『寒山拾得』は、『高瀬舟』と併せて、鴎外の作品をめぐる考察において、考える傾向にあるが、この二つの作品は同じタイプではない。第一に、『高瀬舟』においては終わりも、『寒山拾得』のような、どんでん返しがない。その上、『高瀬舟』は、文体の上でも、登場人物からも、従来の鴎外の歴史小説に所属しているが、『寒山拾得』はまったく趣を別にしているのである。

 『高瀬舟』は、次のような文体によって、書かれている。

 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された、それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、主立った一人を、大阪まで同舟することを許す慣例であった。これは上へ通った事ではないが、所謂大目に見るのであった黙許であった。

 『高瀬舟』の文体は淡々としているが、静的であり、軽妙ではなく、『寒山拾得』よりも、むしろ、先に引用した『阿部一族』のそれに近いことは明らかだろう。さらに、登場人物の面でも、弟を安楽死させた喜助は「跡で思って見ますと、どうしてあんな事が出来たのかと、自分ながら不思議でなりませぬ。まったく夢中でいたしましたのでございます」と告げている。彼は『阿部一族』の柄本又七郎と同じ種類に属する人間なのだ。ところが、『寒山拾得』では誰一人としてこのようなことは言っていないのである。

 安楽死の是非は、今日でも、困難な問題の一つではあるが、鴎外はそれについて次のように書いてしまっている。

 弟は剃刀を抜いてくれたら死ねるだろうから、抜いてくれと云った。それを抜いて遣って死なせたのだ。殺したのだとは云われる。しかしそのままにして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であったらしい。それが早く死にたいと云ったのは、苦しさに耐えなかったからである。喜助はその苦を見ているに忍びなかった。苦から救って遣ろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと想うと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。

 『高瀬舟』では、他の歴史小説と同様、結論のない結論という一般論が展開されている。人は、思考するとき、一般論から出発しているのであって、ことさらにそれを文学として書くことは不必要なのだ。この程度のことは、安楽死の問題を考える際に、ほぼ常識的に人がまず最初に頭を悩ますことであろう。柄谷行人は、『歴史と自然』において、『高瀬舟』は安楽死の問題を扱っていないと言っているが、鴎外が医師であり、苦痛にあえいでいる立場ではなく、それを見ている側の視点から書かれていることを考慮すれば、それに対する彼なりの解答と考えるべきである。『高瀬舟』の結論づけの放棄は先の『津下四郎左衛門』のケースとはまったく違った意味を持っている。なぜなら、鴎外は医者であり、安楽死には積極的に意見を述べる立場にあるからなのだ。

 しかも、鴎外が当時まだ日本国内ではあまり知られていない法医学に関する情報を得ていた可能性があることを支倉逸人の『検死秘録』における次のような記述が告げている。

 

 日本の法医は「明治天皇御声掛かり」で作られた専門医と言われる。明治政府は、ドイツ刑法を手本にして日本の司法制度を作ろうとしていた。その時、ドイツでは法医という医師をおいて、殺人事件などの鑑定をさせるという話が出て、明治天皇は「帝国にかかる医師ありや」と聞かれた。文部省で急遽法医を養成しなければならなくなり、片山国嘉氏を森鴎外らと共にドイツへ留学させた。

 

法医は行政解剖(病死や自殺、事件性のない事故死などの死体の解剖)や司法解剖(殺人や傷害致死、業務上過失致死など犯罪の疑いがある死体の解剖)を通じて、死因を特定する。人が亡くなると、医師は死亡診断書もしくは死体検案書を書く。両者の様式は同じであるが、死亡の状況に応じていずれかを選択する。死亡診断書は、原則的に、病気治療中の患者の臨終に立ち会った主治医が記し、死因の種類は「病死及び自然死」に限られる。他方、死亡検案書は死後に検査して死因を推定する証明書であり、主治医以外の医師──たいていは法医──が記入するケースが多く、死因の種類は「病死及び自然死」を含む十二種類に渡る。「病死及び自然死」以外の死因を亡くなった人の体の外に死因がある「外因死」と呼び、それには「不慮の外因死」と「その他及び不詳の外因死」がある。「不慮の外因死」は「交通事故」、「転倒・転落」、「溺水」、「煙・火災及び火焔による傷害」、「窒息」、「中毒」そして「その他」の七つに分類される。「その他」は地震などの災害で亡くなったときに、用いられる。「その他及び不詳の外因死」には「自殺」、「他殺」と「その他及び不詳の外因」の三種類が含まれる。「その他及び不詳の外因」は自殺なのか、他殺なのか、それとも不慮の事故なのか区別がつかないときに、使われる。最後に、解剖しても、内因死なのか、外因死なのかわからない場合は「不詳の死」に分類される。以上の十二種類の死因を判断するために、解剖が行われる。行政解剖には、自治体によって多少異なるものの、遺族の許可が要るが、司法解剖には不要である。その代わり、刑事訴訟法第一六八条に基づき、裁判所の許可の下に行われる。『日本書紀』にも雄略天皇による皇女の司法解剖の記述が見られるらしいけれども、司法解剖が明治期に導入されたのに対し、行政解剖は、敗戦直後、栄養失調や伝染病で亡くなる人が多く、その予防策を探し出すために、始まっている。その他に、依頼されれば、生体鑑定や物体鑑定、文章鑑定なども行い、法医が証人として裁判の行方を左右することもある。しかも、「法医はパイオニアで、その都度、社会的問題になっているテーマを先駆的に研究するが、検査法が実用化してしまえば手を引く。薬物中毒にしても、たとえば、今後、何かの事件で使われてとくに問題になるような薬物が出てくれば、法医はそれを研究するが、一段落すれば研究をやめることになるだろう」(『検死秘録』)。かつて精神鑑定も法医が行っていたし、血液型研究も法医学から始まっている。『高瀬舟』に見られる事件は、明らかに、司法解剖の対象になる。自殺幇助にあたるかどうかは司法解剖の結果を裁判所が判断すべきことである。現代のミステリー作家も法医学の知識を少なからず利用して、作品を書いているけれども、当時から鴎外はこうした医学の側面も知りながら、『高瀬舟』を書いたのである。

医師は、二十世紀の歴史上、最大の犯罪者の一人である。ナチスにおいて、ユダヤ人、すなわち非アーリア人を定義していたのは医師である。ナチスは、その意味でも、極めて二十世紀的である。日本では、医学は最も西洋化=近代化を象徴している。東洋医学は公的な医療の場から締め出された。それ以前の日本は、エキスパートの社会だった。近代化は官僚制度の導入を意味している。官僚制は、アドルフ・アイヒマンが体現していたように、高い学問製を持ちながらも倫理性を欠く「スペシャリスト」の体系である。近代日本において、七三一部隊や各種の薬害、公害が示しているように、医師は最大の「スペシャリスト」である。これらは個々の医師の資質だけの問題ではない。官僚制に基づいている医学が必然的に生み出したものなのだ。殺人を医師は肯定し、虐殺に荷担していたというのに、彼らから自己批判は聞こえてこない。しかも、臓器移植に際して、医師は「医学的」には問題がなかったと記者会見で弁明することが多い。しかし、彼らが問われているのは、「法的」な問題である。法と医学の齟齬を克服するのは、確かに、困難である。そのためにも、医師は社会的な「法」を順守し、説明責任を果たす必要がある。官僚主義的医師はアンドレ・ブルトンやルイ・アラゴン、チェ・ゲバラも医師だったことを思い起こさなければならない。本来、彼らはプロフェッショナルになるべきなのだ。ナチズムやファシズム、スターリニズム、現在まで続いている天皇制ファシズムは、石橋湛山が指摘しているように、官僚制の体系、「スペシャリスト」の体系である。官僚制を批判しながら、天皇制を維持するという政治家や知識人の発言は、まさに「スペシャリスト的」であり、彼らが二十世紀細大の犯罪に協力している証拠なのである。『津下四郎左衛門』においては、彼は歴史家として振る舞うことができた。善の原理を斥け、ただ真の原理から問題を考察すればよかったのだ。しかし、『高瀬舟』では、鴎外は医者としてこの問題に対処しなければならないのである。その上、『高瀬舟縁起』の中では、江戸時代後期の神沢貞幹が著わした随筆『翁草』の「流人の話」と比較しつつ、「死に瀕して苦むものがあつたら、楽に死なせて、其苦を救つて遣るが好いと云ふのである。これをユウタナジイといふ。楽に死なせると云ふ意味である。高瀬舟の罪人は、丁度それと同じ場合にゐたやように思はれる。私にはそれがひどく面白い」と記しているのである。そもそも近代日本において人の死を判定できるのはただ国家が免許を与えた医者だけなのだ。

支倉逸人は、『検死秘録』において、監察医の経験から大晦日になると変死が多くなると次のように述べている。

 

休みで都内から医師がいなくなってしまうから、いつも医療を受けていた人でさえ変死扱いされてしまう。医師が旅行に出かけてしまって、結局、臨終に医師が立ち会ってくれない。そうすると変死扱いになるわけだ。

たとえば「自宅で父が死んでいました」というとき、普段なら、掛かり付けの先生が往診して「そろそろ危ないと思っていましたが」などと診断して死亡を確認し、受診中の疾患が死因と死亡診断書を発行し、病死として死亡届ができるのだが、肝心の先生が旅行で不在となると、家族は「死んでいました」と警察に届けるしかない。それで警察が来て、変死扱いにして「監察医を呼びましょう」ということになる。

 

このように法治国家である以上、死は医学的に判断され、法的に処理されなければならない。心臓死を人の死とするか、それとも脳死を人の死とするかという問題にしても、結局、死を宣告するのは、自分自身に対しては不可能であるとしても、医者のみなのである。死は、医者にとって、既得権益となった。

 鴎外は、むろん、安楽死の問題について決して沈黙していたわけではない。『高瀬舟』以前にそれに関して何度か語っていた。鴎外は、一八九八年六月に、ベルリン大学教授マルティン・メンデルスゾーンの安楽死説を要約して、『甘瞑の説』として発表しているし、また、一九〇九年の『金毘羅』を長女を安楽死させかかった体験に基づいて書いている。しかし、これだけではあまりに不十分であろう。

 『高瀬舟』と『津下四郎左衛門』を同じ歴史小説のカテゴリーに属すると同等の読解で扱うことはできない。そこに何が書かれているかではなく、誰が書いたかを、優先的に、問わなければならない。例えば、手塚治虫の医者を主人公にした『ブラック・ジャック』の中で、安楽死は、医師の免許制度とならんで、最も重要な問題である。そこで鴎外と同じ軍医出身のドクター・キリコという安楽死専門の医者が登場している。彼は、戦場で、助かる見こみがなく、苦痛に耐えかねている負傷兵に楽にして欲しいと頼まれ、安楽死させてやると彼らから感謝された経験から安楽死を積極的に推進する立場をとるようになった。『ブラック・ジャック』から安楽死に積極的に肯定はしていないことは内容からは読みとれるものの、結論は、結局、導かれることはなかったが、その紆余曲折さは読み手にとって十分納得のいくところである。安楽死を合法化しているオランダでも細かなガイドラインをつっているが、それにもやはり問題点が生じており、修正が加えられる余地がある。最近、日本の裁判所は、患者が信条もしくは信仰の理由から医療行為を拒否した場合、医師はそれを尊重するのが望ましいという傾向の判決を下している通り、自由権が重視されていくのが時代の流れになっている。『ブラック・ジャック』は、近代日本において、医療を最も広範囲かつ周到に扱った作品にほかならない。安楽死に限らず、鴎外が決して人間的な問題に精通していなかったことは、『妄想』の次の言葉からも明らかである。「自分がまだ二十代で、全く処女のような官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には嘗て挫折したことのない力を蓄えていた時の事であった」。鴎外は「全く処女のやうな官能」と述べているけれども、処女が感ずるのはせいぜい痛みだけであって、官能は、むしろ、ある程度の経験があって初めて生ずるものであり、「外界のあらゆる出来事に反応」できるのはその経験を経て官能を覚えてからなのだが。武田泰淳は、鴎外に対して、「日本の文化人」は「滅亡に対してはいまだ処女であった。処女でないにしても、家庭内に於ての性交だけの経験に守られていたのである。これにひきくらべ中国は、滅亡に対して、はるかに全的経験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の女千淫によって、複雑な成熟した情欲を育くまれた女体のように見える」(『滅亡について』)と言って、含み笑いをかすかにして見せるだろう。おそらく鴎外は、『ヰタ・セクスアリス』のころから亡くなるまで、性交渉の際に、相手が声をあげていることが感じている証拠と勘違いするタイプだったのだ。

 

I made it through the wilderness

Somehow I made it through

Didn't know how lost I was

Until I found you

 

I was beat incomplete

I'd been had, I was sad and blue

But you made me feel

Yeah, you made me feel

Shiny and new

 

Like a virgin

Touched for the very first time

Like a virgin

When your heart beats (after first time, "With your heartbeat")

Next to mine

 

Gonna give you all my love, boy

My fear is fading fast

Been saving it all for you

'Cause only love can last

 

You're so fine and you're mine

Make me strong, yeah you make me bold

Oh your love thawed out

Yeah, your love thawed out

What was scared and cold

 

Oooh, oooh, oooh

 

You're so fine and you're mine

I'll be yours 'till the end of time

'Cause you made me feel

Yeah, you made me feel

I've nothing to hide

 

Like a virgin, ooh, ooh

Like a virgin

Feels so good inside

When you hold me, and your heart beats, and you love me

 

Oh, oh, oh, oh, oh, oh, oh, oh, oh

Ooh, baby

Can't you hear my heart beat

For the very first time?

(Madonna “Like A Virgin”)

 

それはさておき、安楽死の問題はかなり昔から論じられてきた問題である。例えば、ディオゲネスとアンティステネスの間には次のようなエピソードがある。アンティステネスは病のために死んだのであるが、死ぬまで、ひどい苦痛をともなった。耐えかねて、アンティステネスが「誰がわたしをこの苦痛から救ってくれるだろうか」と言ったので、ディオゲネスは、短剣を示しながら、「これが」と応じた。すると彼は、「わたしは、苦痛からと言ったのであって、生きていることから、と言ったのではないよ」、と答えたのである。このエピソードに比べると、『高瀬舟』の結論のない結論はやはり生彩さがない。確かに、鴎外の立場上、安楽死の是非に対する解答は微妙なものにならざるを得ないことは間違いなかっただろう。医者は、学校の教師を除けば、日本では最も「先生」と呼ばれる職業である。医学は明治の近代化の象徴であり、中央集権化による選択・排除が最も進んだ学問であった。医学は、北里柴三郎や志賀潔、秦佐八郎、野口英世など細菌学を中心に、他の学問に先駆けて、いちはやく、世界的なレベルに到達していた。当時、医者は神にも近い存在であり、安楽死を認めるなどと口が裂けても発言することはできなかった。安楽死の問題はデリケートであるから、単純に答えを出すべきでは、確かに、ない。フロイトは安楽死したことで知られるが、それだとて、まさに壮絶な闘病生活の末、選択したのであって、短絡的な結論ではなかった。そうであったとしても、いや、だからこそ、一九〇九年のころには『半日』・『魔睡』・『ヰタ・セクスアリス』を著わした鴎外には先のディオゲネスのユーモアくらいは書いて欲しいものである。鴎外の作品に一貫して用いられるアイロニーは語り手が聞き手を「突き放す」笑いであるが、ユーモアは前者が後者に「突き放される」ものなのだ。『高瀬舟』は、安楽死の問題からとらえると、さほどすぐれた作品ではないどころか、失敗作なのである。むしろ、鴎外はこの結論のない結論を書かずに、氷山の一角だけを示すにとどめ、黙って、「次第に更けて行く朧夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った」と直接表現すべきだったのだ。『高瀬舟』の場合と違って、鴎外は、『寒山拾得』においては、氷山の一角だけを書き、あとは沈黙している。このように、『高瀬舟』は鴎外が「突き放している」のに対して、逆に、『寒山拾得』では鴎外が「突き放され」ているのである。

 寒山・拾得の立場からあのシーンを考えてみると、彼らが閭を嘲笑うように逃げていくとも解釈できるが、そうした悪意ではこの部分は釈然としない。悪意であるとすれば、逃げながら、「豊干がしゃべったな」と言わずに、『羅生門』の下人のように、閭に、そう直接的に言ってから、逃げたほうが相手をからかうのには効果的であろう。むしろ、彼らは「まいったなあ」とうろたえて逃げていくように見える。寒山・拾得は豊干と表裏一体の関係にあるが、閭に、その拒絶において、豊干が寒々としたものしか残さなかったのに対して、寒山・拾得はなつかしさを与えている。それは彼ら自身がうろたえたからであるように思われる。この寺を去っていったのは寒山・拾得だけでなく、すでに豊干も、閭が到着する前に、去っていってしまった。寒山・拾得は閭にではなく、その先に消えてしまった豊干に、彼の悪意に何かを言いたそうである。

 柄谷行人は、『寒山拾得考』において、この寒山・拾得の行動を次のように分析している。

 彼らは嘲笑しながら逃げているというよりは、なにかうろたえて逃げているようにみえる。それは彼らが「正体」を指摘されたからである。実は文珠・普賢だというような正体ではない。正体などというものは当人にもよくわからない。そのわからぬものを突然突きつけられたときの狼狽が、この光景から感じられるのである。

 非難されるにせよ、讃められるにせよ、それはそれで納得が行く。が、こういう狼狽はそれとはちょっと次元がちがったものであって、暗闇の中で突然ライトをあてられたような眩しさ、恥ずかしさ、怖さなのである。これをうまく説明することは難しいが、私が考えている自分の正体ではなく、他人が考えている私の正体でもなく、正体そのものがむき出しにあらわれるような感覚である。寒山・拾得が思わず逃げ出したのは、嘲弄とか拒絶とかだけでなく、そのためのように思われるのである。

 寒山・拾得の狼狽は、忘れたいと思っている恥ずかしく忌まわしい過去が、不意に、白日のもとにさらされてしまうというような種類ではない。寒山・拾得が逃げ出すのは、シャーロック・ホームズと初めて出会ったときに、ワトソンが、突然、彼によって自分の経歴を推理され、狼狽したように、自分の正体が暴かれてしまった瞬間なのだ。この正体は自己認識としてでも他者認識としてあるものでもない。コミュニケーションによって自分についてにしろ他人についてにしろ認識は形成されるものだが、それが一切ないまま、見透かされてしまうとき、自らには隠れたものが何もないという「眩しさ、恥ずかしさ、怖さ」を感じるのだ。つまり、自分には隠れているものが何もない、すなわち「正体そのもの」とは正体などというものが何もないということなのである。

 鴎外はこの『寒山拾得』を自分の子供の質問に対する答えをそのまま書いたのだが、『附寒山拾得縁起』において、子供はその説明に満足しなかった、と次のように告げている。

 子供には、話した跡でいろいろの事を問われて、私は又己むことを得ずに、いろいろな事を答えたが、それを悉く書くことは出来ない。最も窮したのは、寒山が文珠で、拾得が普賢だと云ったために、文珠だの普賢だのの事を問われ、それをどうかこうか答えると、又その文珠が寒山で、普賢が拾得だと云うのがわからぬと云われた時である。

 子供は大人よりもレトリックを理解しないし、またディオゲネスのようなアイロニカルな態度は病的にしか感じられない。「痩せて身すぼらしい小男」は、子供には、「痩せて身すぼらしい小男」にすぎないのである。「私は一つの関を踰えて、又一つの関に出逢ったように思った。そしてとうとうこう云った。『実はパパアも文珠なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ』」。しかし、当時の鴎外は寒山・拾得などではなく、豊干であった。鴎外は、むしろ、自分自身の寒山・拾得の側面、すなわち森林太郎を誰も知らないと言っているように見える。それと同時に、「実はパパアも文珠なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」は苦しまぎれにも見えるのだ。鴎外は、「子供はこの話には満足しなかった。大人の読者は恐らくは一層満足しないだろう」、と言っているが、しかし、これはほんとうではないだろう。子供の読者よりも大人の読者のほうが、この話を、今までに発表された数多くの『寒山拾得』に関する論文やエッセーを読めばわかるように、アイロニーとして、「満足」してくれる。例えば、大人には永遠の二枚目俳優と呼ばれた長谷川一夫も、子供にとっては、目を細め、おかしな抑揚をつけて、「おのおのがた」と物真似をする対象としては格好の三枚目のコメディアンにすぎないのである。われわれは、性的関係にさえも、子供に学ぶ必要がある。明るく、楽しく、笑える性交渉こそ望ましいのであり、子供のときに抱いていた健康的な、成熟した生きる意欲の姿勢を想起し、そこにも導入することこそが真の性的関係にほかならない。中野重治は、「森鴎外」(『鴎外 その側面』所収)において、鴎外が子供に自分も文珠なのだと語ったことは彼にとって「真実」であり、それゆえ、「人が拝みにこないのがいくらか淋しく映っていた」のであって、この言葉には「後ろ向き気味になった悲しい姿がある」と批判しているが、中野重治は文珠を菩薩として拝むことを疑問に思わない典型的な大人の読者にすぎない。鴎外は、レトリックを理解しない子供によって、隠れた正体というものはないのだということを突きつけられたのである。鴎外は悪意か冗談としてそう言ったのかもしれないが、子供にそんな悪意や冗談は通じない。子供が鴎外の答えにどう反応したかについては言及していない。鴎外は、子供によって、寒山拾得になったのである。鴎外は「正体そのもの」を見破られて、子供の前から逃げ出したのだ。

 鴎外にとって、『寒山拾得』こそが寒山・拾得なのである。確かに、『寒山拾得』は、他の作品と違って、自ら意欲的に書いたわけではなく、強いられた作品である。だからこそ、作家としての鴎外の関心は表われていないが、鴎外がいかなる姿勢を持っていたかを顕在化しているのだ。ドナルド・キーンは、『鴎外の「花子」をめぐって』において、『寒山拾得』は「文章は別として原典より優れているとは思わなかった」と述べているが、この作品から読みとるべきなのはそれが中国の原典の再構成が成功しているか否かではなく、寒山・拾得が菩薩であるという前提の不成立に対する鴎外の狼狽なのである。そういった意味で、「痩せて身すぼらしい小男」である石川啄木らを出入りさせていた鴎外の森林太郎として書いたあの遺書はこの『寒山拾得』の延長線上にある。大切な遺産を顧みず、「石見人森林太郎」として死にたいと遺書に書いた鴎外は、先にも触れたが、自己没却と自己主張が入り交じっており、漱石と比べると、自己劇化しているという指摘はまぬがれえないだろう。こんな弁護士が見たら閉口してしまうような遺書を残した鴎外は彼の歴史小説に登場してくる武人気どりの俗物にすぎないではないかと呆れた声も聞こえてきそうだ。しかし、森鴎外としてではなく森林太郎として死ぬということは、自分自身にとって、鴎外はまやかしであり、林太郎こそがほんものであるというアイロニーを意味していない。自らを「石見人」と名乗るのはアイロニーやシニシズム、または謙虚さからではない。むしろ、鴎外は死に直面し、自分の「正体そのもの」が露わになって、自分自身はただの「石見人」にすぎなかったのだと言って、寒山・拾得のように、われわれの前から逃げ出したのだ。「石見人森林太郎」とは、鴎外自身が生きていく際に味わった「生存の孤独」の表われなのである。それは、子供から突き放されたことによって、「一つの関を踰えて、又一つの関に出逢った」鴎外が『寒山拾得』を書くときに意識させられたことなのだ。『寒山拾得』以後鴎外が作品を書かなくなっていったのは、史伝に集中するためだけでも、才能が枯渇したからでも、体調がすぐれなくなったからでもない。「ふるさと」に基づくなら、形式的に書くことはもはやできない。「ふるさと」を思い返し、そしてそれに突き放されるといった反復が、書き手に寡作を余儀なくされるのだ。鴎外が出逢った「ふるさと」という「一つの関」は絶対に超えることのできないものなのである。鴎外は『寒山拾得』から、作家として、誠実になったのだ。決して超えられない「一つの関」と出逢った鴎外は自分自身を「石見人」と呼ぶほかなかった。『寒山拾得』は森鴎外ではなく、「石見人」と、初めて、自覚した森林太郎が書いた作品にほかならないのである。

〈了〉

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